かかりつけ医のすすめ!

かかり付け医(臓器ごとではなく人間全体を見られる医者で、できれば訪問してくれる医者)を見つけておく事、そうしないと不意に家族が亡くなってしまった場合など、検死(検視→刑事訴訟法第229条に基づいて犯罪性の有無を捜査する作業を指す。検案→は医師法第19条に基づいて、犯罪性の有無に関わらず、外傷性なのか、病死なのか死因を医学的臨床的に評価することである。解剖→。刑事訴訟法第168条に基づいて司法解剖が、死体解剖保存法第8条に基づいて行政解剖が、死体解剖保存法に基づいて病理解剖が行われる。)になってしまう可能性があり、面倒である。判断に困ったらまず、かかりつけ医の先生に相談すること。それと普段かかっている病院の受診表をいつも持参していること。それなしに慌てて救急車などを呼ぶと、救急病院に入れられ適切な治療が受けられなくなる恐れがある。

●長くなるが、健康で病気知らずだった私が医療に関心をもち、この仕事をライフワークにしようと思い立った原点を述べてみたい。

昭和48年5月、そのとき私は妊娠末期、6月6日が予定日で大きなおなかを抱えて仕事をしていた。

そのような最中、突然前の主人が風邪をこじらせていたのに、外国へ出かけてしまった。済生会病院から突然「ご主人が危篤です。すぐ来て下さい」との電話があり、私は「何かの間違いではありませんか?主人は今外国に向けて飛行中のはずですが・・・」と言った。しかし間違いないと言うのでバイクで出向いたところ、主人がうつぶせで確かに呼吸ができず危篤状態であった。極度に重症な喘息とのこと。何が何だか判らないまま、とにかく入院の手続きをした。

そして私は虎の門病院で出産の予定でしたが、急遽同じ済生会病院にお願いして病院を変更。

主人は3日おきに発作を起こし5分で窒息状態(吸うことも吐くこともできず、顔はサラミソーセージの如くで、ひどいときは発狂状態になった。)になり、強いプレドニンを大量に投与されやっと回復を繰り返すばかり。

その間に私は入院予定日が来て入院。入院日の前日は明け方4時まで仕事(個人事務所を経営)を片付け、そのまま寝ずに入院。ところが虎ノ門病院では「あなたは典型的な安産タイプ」と言われていたのに、済生会病院では「難産タイプだから帝王切開」と決めつけられ、7日の晩に陣痛が起きても誰も来ず、やっと来たと思ったらこの人は「帝王切開だから」と陣痛を収める薬を注射され、その後来た主治医は「何とか自然分娩でいこう」と今度は陣痛促進剤を打たれ、8日に男子出産。

当時、私は事務所兼住まいのマンションを購入したばかりで、多額の借金を抱え、しかも月額の医療費が100万円もかかり、月に200万円は最低ないと親子で首をくくらなければならない状況に追い込まれていた。

私を気の毒がって親友のお母さんがベッドのわきに来てくれたが、私は泣いているどころではなく、福祉事務所へ電話して(何より6階に入院している主人が生存しているかどうかを確認してもらい、事情を話した)子供の預かり先を依頼した。

子供は生まれたばかりなので済生会の乳児院(捨て子や親がいない子等が収容されていた)に引き取られ、私は生活費を稼ぐために毎晩翌朝の4:00頃まで仕事(個人事務所を経営)をこなしていた。主人は1年半ほどそのような状態であったので、針・マッサージ・整体・カイロ・漢方等ありとあらゆる治療を試みた。転地療法で栃木の大病院に入院したその日に発作が起き、殺されそうになってしまった

今にも死にそうなのに主治医が聴診器を当てて震えているばかり、私が今までの病院の治療法を指示したが、「そんなことをしたら死んでしまう」と言い始め、仕方なく私は前の病院に電話し、指示してもらった。病院ではその間、主人ののどを切開して人工呼吸器をつける準備が進み、危うく殺されずに済んだ。手当てが遅れ主人の脳はおかしくなり発狂状態が少しの間続いた。

あわてて友人に迎えに来てもらい明け方の4:00、(車中で発作が起きたら私が注射をするつもりで、吸入器も抱え)済生会病院に戻った。救急車を依頼したが、県を超えるごとに、救急車を乗り換えるとのこと、日本の縦割り行政の弊害だ。それからしばらく同じ状態が続き、主人は怖くて1歩も病院から抜け出せない有様だった。

それで私は母校の慶応大学の図書館にこもり医者向けの本を読みあさり、当時主流であった喘息のアレルギー源を叩くという治療方法を否定している医師の存在を知った。当時アレルゲンは20種類ほど、しかもアレルゲンが空気や水であればそれを避ける方法はないので、一般人と同じに、気管支や呼吸器官を鈍感にしようという療法でその補助に低血糖状態を利用するという方法(ゾルガナール療法)であった。治癒率48%、これはすごい数字だ。

私はわらにもすがる思いでその医者を訪ねたところ、ゴキブリが出る、エレベータも無いおんぼろ貧乏病院で、もし間違いであればすぐ逃げようと、タクシーを待たせ、入院の荷物も解かぬまま診察を受けた。ところがその病院は発作が起きそうだとその前に少量の薬で発作を起こさせないので、日本全国から横綱級の喘息患者が来ていたのだ。我々はやっと安心して荷物を解き、入院手続きを済ませた。(その病院は中野坂上にある「国際仁友病院」、今では立派な病院になって息子と孫が跡を継いでいる。そこで半年入院し、主人は無事退院してきたが、いつまた発作が起きるかわからず、子供は2年近くも乳児院でお世話になってしまった。

それからいつか子供がお世話になった社会に恩返しをしたいと考え、少しづつ仕事の合間に、医療の勉強も始めたのである。

その時の経験で、内科の病棟は退院してもまた戻ってくる方が多く、完治は少ないのだということを学んだ。そして医師は選ばないとひどいことになることも学んだのだ。医師探しも寿命のうちである。

●私自身、60歳の時に左胸に乳がんが見つかり、しかもその癌は乳腺の中だったので全摘が必要な手術だった。癌を見つけた医師は一刻も早く手術を、とのことだった。しかし私が一番信頼している乳がんの権威のB先生は「まだ切らなくて良い」と言われた。私は「ご縁がなかったようですね。残念ですが他の医師を探します」と言って出てきたところ、「誤解だ!僕は切らなくて良いと思うけれど、ここより最新式のMRI検査とペット検査を受けて、日本一の診断のプロを紹介するから、その先生が君と同じ意見であれば、僕は切ります。」と言っていいただいた。

普通の医師なら怒ってしまっただろうし、手術の時期を常に観察していなければならないのだから、大変なことだったのである。

その結果、手術をしていただいたが、ことほど左様に医師同士で意見が割れるのである。

多分切らなくても良い健全なおっぱいが随分失われてきたのだろうと思う。

●今の主人が脳挫傷によるクモ膜下出血で救急車で担ぎ込まれた病院では、もう社会復帰は到底無理だろうと言われ、次の大病院の脳外科部長は「君は何も知らないほうが良いでしょう」と言って、何も教えてくれなかった。そのうえブレーキとアクセルを同時に踏むようなやり方の薬を出すので、もう1件大病院を訪ねて質問したが、やはりはかばかしい返事はもらえなかった。

ところがリハビリ病院を経て、脳外科の主治医を見つけ、針治療とリハビリで現在では見事に歩けるところまで回復したのである。しつこさの勝利である

●私が福井で講演させていただいたS氏の在宅医療(お知らせイベント情報の中の私の初ケア体験に詳細な記録あり)を手始めに、7・8人の末期がん患者を自宅で安らかに苦しませず旅立たせるお手伝いができた。最初は私も半信半疑であったが、本当に苦痛もなく呼吸も楽になり、自宅にいるということがどれほど患者の生きる意欲につながっていくのかを目の当たりにしたのである。

諦めず、納得がいくまで、信頼できる医師が見つかるまで探すこと。「求めよ、さらば与えられん!

貴方も良い主治医を今のうちから探しておかれることをお勧めします。

私たちは医者の技術・経験・人柄、を見て、看護師の意見も聞き、そして同病の患者の意見も聞き、多数の選択祉の中から、最後は自分で決めなくてはならないのである。自分の命は自分で守らなければ、他人任せにしてはいられないのである。